あけましておめでとうございます。

2010は1からおさらい。修行の年にしたい。今日から大学で仕事はじめたが、正式な新年顔合わせは明日。しかも朝8時半からサッカー爆。雨でグラウンドヤヴァソス。

最近見たもので感動したもの。

水琴窟
あるお寺の庭の岩に孔が開いていて、なんだろうと覗いたら非常に美しい音が響いてきた。
その孔からは何も見えないけど、数ミリに及ばない水滴の音の響きに耳を澄ますと、その内部の奥行きとか、高さを、想像することができる。水滴の垂れた位置が手前なのか、ずっと奥なのかによって音の響きも変わる。
最近少し視力が落ちて、目が見えなくなったら建築は続けられるかということを想像したら途端に怖くなっていたので、目を閉じても空間は脳の中に描かれることを再確認できた笑。

弁天窟
こちらも洞窟で、岩に高さの低い孔を頭を下げて入っていくことが出来て、
内部の岩肌を削って十六童子が形作られている。
空間(構造そのもの)そこに置かれる像が完全にシームレスなことにまず驚いたし、その狭さゆえにそこにいる人間が腰をかがめて自然にお辞儀しているような格好になっている。チャーミング。

あとちょっと前に見たものを思い出したけれど
達谷窟毘沙門堂
岩肌に頭半分つっこんだような毘沙門天をまつった堂。
内部は、岩の腹がグっと下がってきてその下でお坊さんが非常にメロディアスなお経を唱えている。詳しくはわからないが、密教系のお経で抑揚があって一緒に歌えてしまうくらい耳に残っている。ここでも、幾重にも重なる音の響きや、思わず頭を下げてしまう空間があり言葉を失う。

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去年は結構目の前のものだけと向き合って空間を考えるきっかけがあって、さらに
最近、村野藤吾等巨匠の思考を追っているけれど、建築の文脈と切り離して、登場する人物やモノのあり方や素材の関係を想像しながら決めていくようで、我々がハンドリングできて実際に提供できるのはものそのもので、メッセージはそこから発せられてしまう。

僕の建築へ向かう衝動というのは二つあって、一つは好きな(カッコイイ)空間を思い描いたり作ったりすることと、そしてやはりもう一つは他者や社会と手を組んだり且つひっくり返したりして驚かしたりお互いの発展させること。たぶんこの二つは異なるアプリケーションで、でも建築はこの二つの間に現れてくると頭では理解できていたものが最近実感としてちょっとづつ、もっとわかりたい。