jyonetu no algorithm

先週末から月曜にかけ大学に4連泊して死にそうになる。
ひと段落したところで以下最近のこと。
先日、ストアハウスカンパニーによる『箱-Boxes-2008』という“無言劇”を見に行く。無言劇だからセリフは無くて、表現の手がかりは5人の演者の身体と20個の300×300×900の箱。彼らはその箱のまわりをぐるぐるひたすら歩いたり登ったり下りたり運んだりある一定の同じ動きを永遠とループさせる。その間箱たちは何かに見立てられ5人とも間合いを取りながらプログラムされたように同じ動きをしている。あるところでそのうちの一人がバグを起こしたようにルールから逸脱し異なる動きを始める。すると次第に他の演者もそれに追随し、違和感のあった一人の動きが、いつのまにか全体のルールとして定着してその頃には既に箱は別のものに見立てられ次のシーンに変わっていたことに気付く。セリフが無いことで微妙な動きの変化が先鋭化してくる。彼らは最低限の選択肢のみを自らに貸し、微差を積層させて風景を作っていた。見た後、劇団員のひとりと話すことができて、完全に共感する笑。
脚本には動きのルールが与えられていて、それがどのように展開するかは毎回違うようである。まさに「きめ」(最低限の脚本)と「なり」(演技の伸びシロ)の関係があって、「なり」が非常に豊かなオープンエンドな表現だと思った。ノイズや偶発性を大いに含んだ“情熱のアルゴリズム”は非常に強いヴィジュアルインパクトを作る。
演者のうちの一人のブログを参照すると
“フィクションとノンフィクションの間を舞台上で行ったり来たりすること。その行ったり来たりの中で、イメージの生まれる瞬間を捉えることが出来たら面白そう。そのイメージはお客さんとの関わりの中でしか生まれません。更に、そのイメージの強度、演劇としてのリアリティは、共演者との関わりの中でしか確保できません。共演者と間合いを測ることが、演劇としてのリアリティに繋がる。同時に、共演者とイメージを交換しあう(会話をする)ことで、イメージがイメージのまま(固定化されずに)大きくうねり始める。”とある。

夏には海外での舞台も控えていて、その劇場は野外だそうだ。たぶん同じ脚本でも広さが変わったりや壁がなくなることでまったくことなった振る舞いを見せてくれると思う。あえて無言にしたことで言語に関係なく逆に広がりが生まれている。おおいに刺激をうけた一日。