QRから論文までいろいろ


忘れないうちに、自由が丘ストリートエキシビジョン2008について書いてみます。
今回考えたのは二層構造とopen endということ。

diagram的に説明すると、このような感じです。
まずfirst impactが路上に現れる。この部分の‘フォーム’をデザインしたのはg86で、白い大きな壁面を植物のモチーフで彩るいわゆる壁面デザイン。
遠くから見ると植物だが、近づいてみるとQRコードで全体が構成されていて、それを読み込むと作家たちによって構成された作品群、second impactに接続する。
展覧会前からすでに情報空間の中には存在していたコンテンツだが、‘自由が丘ストリートエキシビジョン2008’という枠組みを持って、環境に飛び込むと、ある種の濃淡が浮き上がる。
そしてその枠組みは展覧会終了後もopen end に外界と接続したままネットに存在し続けることになる。
まだまだ荒削りだけど、大げさに言えば、いわゆる建築のスケッチからは導けない不可視のイメージ捕まえることができたような気がします。

あとおもしろかったのは作家の方が提供してくれた作品群にもいくつかの可能性があったということ。
•かつて描いた作品。これは、もともとは大きなキャンパスに描かれた物質的な絵が‘待ち受け’というコンテンツへと変換され軽快な再生産可能性を示している。
•期間中、変化する作品。これはQRコードが書き換え可能なキャンパスとして機能することになる動的な変更可能性を示している。
•コンテンツ。これはQRコードは2次元のドットにすぎないけど接続するとシステムや音や動画にも変化する柔軟な変換可能性を示している。

壁面という2次元の静的なデザインだが、さらなる広がりがあったことが興味深い。

情報空間のある一部を紡いで自由が丘に現象させ強引に枠づけたと言える今回のプロジェクトは(笑)建築夜学校で東浩紀さんが「googleを前に個人が何をしても回収されてしまうわけだが、それでも僕は書き続ける。つまりgoogleをひっくり返そうとするのではなく、その環境を受け入れた上でどう自分を位置づけるかを考えることが大事」とおっしゃっていたが、共振する部分があると思います。

最近、筑波批評社の伊藤君と議論始めたので、この辺も拡張していけたら次に繋がるんじゃないかと思います。
それとまた少し接続しそうな激いい本をよんでいます。ポールグレアムの「ハッカーと画家」という本。
激熱いので以下少し引用。
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ハッキングと絵を描くことにはたくさんの共通点がある。 実際、私が知っているあらゆる種類の人々のうちで、 ハッカーと画家が一番良く似ている。

ハッカーと画家に共通することは、どちらもものを創る人間だということだ。 作曲家や建築家や作家と同じように、ハッカーと画家がやろうとしているのは、 良いものを創るということだ。 良いものを創ろうとする過程で新しいテクニックを発見することがあり、 それはそれで良いことだが、いわゆる研究活動とはちょっと違う。

私は「計算機科学」という用語がどうにも好きになれない。 いちばん大きな理由は、そもそもそんなものは存在しないからだ。 計算機科学とは、ほとんど関連のない分野が歴史的な偶然から いっしょくたに袋に放り込まれたもので、言ってみればユーゴスラビアみたいなものだ。 一方の端では、ほんとうは数学者である人々が、DARPAの研究費を得るために 計算機科学を名乗っている。 真ん中あたりでは、コンピュータの博物学みたいなことをやっている人々がいる。 ネットワークのルーティングアルゴリズムの振舞いを調べたりとか、そういうことだ。 そして、反対側の端っこには、ハッカー達がいる。 面白いソフトを書こうとしている者達だ。彼らにとっては、 コンピュータは単なる表現の媒体にすぎない。 建築家にとってのコンクリートが、また画家にとっての絵の具がそうであるように。 これはまるで、数学者と物理学者と建築家をひとつの学科に押し込めているみたいだ。

ハッカーがやっていることは「計算機工学」と呼ばれることもあるが、 この用語も誤解を助長するだけだ。 優れたソフトウェア設計者は、建築家がエンジニアではないのと同じように、 エンジニアではない。 もちろん建築とエンジニアリングの境界ははっきりと定められているわけじゃないけれど、 確かに存在する。それは、「何を」と「どうやって」の間にある。 建築家は何をするかを決め、エンジニアはそれをどうやってするかを考え出すのだ。

「何を」と「どうやって」をあまり分けすぎるのは良くない。 どうやれば出来るかを理解せずに何をするかを決めようとするのは、 間違いのもとだ。 でも、ハッキングには確かに、ある仕様をどうやって実装するか決めること以上の ものがある。ハッキングの最良の形態とは、仕様を創ることだ--- ただ、仕様を創るいちばんの方法はそれを実装することだ、ということに過ぎない。

たぶん「計算機科学」は、ユーゴスラビアがそうなったように、 いつかそれを構成している部分ごとにばらばらになるだろう。 それは良いことなんだろうと思う。特に、それが私の故郷でもある、ハッカー国の 独立を意味するのなら。

これらの全然違う業種を一つの学科にまとめておくのは、 管理する側にとっては便利なのかもしれないが、 知的な混乱をもたらす。 「計算機科学」という言葉を私が嫌うもうひとつの理由がそれだ。 真ん中にいる人々は、まあ実験科学をやっていると言えなくはないかもしれない。 しかし両端にいる人々、ハッカーと数学者は、科学をやっているわけじゃないんだ。

数学者はきっとそんなことは気にしないだろう。 彼らは、数学科の数学者達と同じように定理を証明することに夢中になって、 自分のいる建物に「計算機科学」の看板が付いていることなど たぶんすぐに忘れてしまう。でもハッカーにとってはこの看板は問題になる。 科学と呼ばれると、ハッカー達は科学的にふるまわなくちゃならないような 気になってしまう。そして、大学や研究所にいるハッカー達は、 彼らが本当にやりたいこと、つまり美しいソフトウェアをデザインすることではなしに、 研究論文を書かなくちゃいけないような気になってしまうんだ。

運がよければ、論文は形を整えるためだけのもので済むだろう。 ハッカーはクールなソフトを書いて、そしてそれについての論文を書く。 そういう論文は、ソフトウェアそのものによって示されるべき作品の、代理となる。 でも、このミスマッチは往々にして問題となる。 美しいものを創るのではなしに、 醜いけれど論文の題目にはなりやすいものを造るほうにひきこまれてしまうのはたやすい。

残念なことに、美しいものは論文になりやすいとは限らない。 第一に、研究は独創的でなければならない--- そして、博士論文を書いた経験のある人なら誰もが知っているように、 あなたが処女地を開拓していることを保証する一番良い方法は、 誰もやりたがらないような場所へ向かうことだ。 第二に、研究にはたっぷりとした量がなければならない--- そして、妙ちきりんなシステムであるほど、たくさんの論文が書ける。 そいつを動かすために乗り越えなければならなかったいろんな障害に ついて書けるからね。 論文の数を増やす最良の方法は、間違った仮定から出発することだ。 AI研究の多くはこの規則の良い例だ。 知識が、抽象概念を引数に取る述語論理式のリストで表現できる、 と仮定して始めれば、それを動かすためにたくさんの論文を書くことになるだろう。 リッキー・リカルドが言ったように、 「ルーシー、君はたくさん説明することがあるね」ってなわけだ。

何か美しいものを創るということは、 しばしば既にあるものに微妙な改良を加えたり、 既にある考えを少しだけ新しい方法で組み合わせたりすることによって なされる。この種の仕事を研究論文にするのはとても難しい。続く
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建築の話も出てくるし、今ちょうど、論文を書いているので、揺さぶりをかけられているようです笑。
いろいろ考えながらやっているので燃えています。
眠さが限界なので寝ます爆