建築夜学校002

建築夜学校二日目のブログレポートです。
後半の議論はなかなかテンション上がりました。
プレゼンも多彩で、建築の社会的側面について再考するきっかけになる。

まず岩佐明彦氏が新潟でのショッピングセンターのフィールドワークを通して発見した「インドア郊外」という現象は興味深かった。
郊外では、自動車が居室のようにカスタマイズされ、ショッピングセンターのインテリアも柔らかな照明、ソファを多用し、居室のようにデザインされていて、経験として常に内部空間がルーズに繋がっている。
今は居室化というレベルだが、数年後には寝室化してしまうんじゃないかというくらい、プライベートの領域が重ね合わせられている。

中村竜治さんのインテリアデザイン(流山おおたかの森のショッピングセンター)も条件をよく読み込んで、商業論理からは違う次元で設計をしたはずだが、結果的によく売れるメガネ屋を作っている。設計条件からアウトプットまで非常に素直に思考が連続していて完全に理解できる論理なのに、出来上がったものがあんなにまでファンタジックなのに驚く。

ショッピングセンターの話からは少し離れるが芝田義治さんの「リハモナイズ」という話は、なかなかいいプレゼンだったと思う。メロディー(表層)とコード進行(深層)の関係について語っていて、共感した人も多かったと思う。芝田さんのある枠組みを、一つの建物でどんどん変形させていくというような話があったと思うが、その思考でショッピングセンターを作ったら面白くなりそうだなと思う。


関谷和則さんの養命酒健康の森記念館の思考も大江匡氏の言うある種の“上流”へ切り込んでいてテンションが上がった。施主が、移築した蔵を主題に改修の依頼をしてきたが、関谷さんが注目したのは周りの森。ネガポジ反転というか設計条件を読み替えるまで踏み込んで設計をしている。若林さんの言う「見える建築、見えないショッピングセンター」にも接続反転できそうで、やはりショッピングセンターそのものについてもっと深く言及してほしかった。

続く後半の議論で出てきた若林幹夫さんの「見える建築、見えないショッピングセンター」という話にテンションあがる。ショッピングセンターの立面とか外部は重要でない=見えないという。また建築家は“川”を作ることも“川”に小石を投げ入れることも“川”から水を引いてためることも出来ると話していて、大江匡氏の上流下流の思考とも連続してるかもなと勝手にリンクさせる。

というようにいろいろと話は出てくるが、いざショッピングセンターの話になると内部での経験や身体の話へ終始してしまいショッピングセンターの枠組みから斬り込むプレゼンターの方がいなくて個人的には歯がゆい部分もあった。そんなに“見えない”のかと思うが、それはビジター的視点だと言われ切られてしまう。個人的にはその視点がないといつまでたってもインドア郊外的生活は変えられないと思う。

建築からは遠い所で存在する固定化してしまったショッピングセンターの枠組みを突破するためにはやはり、ショッピングセンターの唯一他の他の建築と違う特徴である、(若林さんは見えないというが)圧倒的な外部のダイナミクスを利用するしかないのではないか。

商業論理の枠組み(二核モール型という空間のトポロジー)を保存したまま、かすかに読み取れる場所性(コンテクスト)との緊張関係を作って、環境をねじ曲げること。

この画像は"ららぽーと豊洲"のボリュームを立ち上げてgoogle earthにplotしたものである。
もともと旧石川島播磨重工業(現IHI)東京第一工場跡地である
ショッピングセンターにどうしても出てきてしまう条件は"核店舗"とそれをつなぐ小店舗の連なりである"モール"の空間である。もともとあったドック(船着き場)を潰さず、囲むように核店舗を置き、細いモール部分をドックより後ろに配置している。これにより中央広場は風のよる抜けるダイナミックな空間が作られていて、そこに舟形の分棟店舗を配置している。"外部"を見えないどころか、かつての枠組みを空間化且つキャッチコピー化しているので、建築家の柄沢祐輔氏の言う顕在的なコンテクスト(敷地の物理的な環境)の中にも潜在的なコンテクスト(かつて敷地に存在した枠組みや経済の力学)の中にも、他のショッピングセンターよりかは位置づいているように見える。

議論の最後で場所性の話も出たが、豊洲ららぽは、決してカッコいいとは思わないが、全体を使ってそれをなんとか繋ぎ止めている具体的なレファランスとして挙げられる。

ショッピングセンターにおける次世代の“設計”や、“差異”とはまずはこういうことなのではないかと思う。
ショッピングセンターは身体などという小さなスケールではなく、超俯瞰の視点で考えることが出来る現代における唯一の巨大建築だと思う。