思考の祝祭

研究室の仕事の合間をぬって、去年参加したブリテッシュカウンシルのcityscaperというワークショップの今年のメンバーに対する説明会に百枝優さんや笹原晃平さんと参加してきますた。
そこには日新工業の授賞式で出会ったSFCの木名瀬遼さんや、中村正人研の國盛麻衣佳さんらがいて今年もおもろそうなメンバー。
最近、論文や卒業設計で大学に篭りっぱなしだったので人の繋がりを久しぶりに実感し、何かを取り戻す。

一旦解散したあとは、百枝さんと笹原さんと飲みにいき、いつもどおりg86や僕のスタンスと百枝さんのスタンスが真逆なので、瞬間的に加熱。笹原さんにはいつも闘魂を注入される。

これからすべき思考を考えながら帰りの電車で先輩能作氏から拝借したハイデガーに関する本を勉強していると「思考の祝祭」というキーワードが出てきてグっときた。
今読んでる北川東子さんの著書の一節をちょっと引用。

ハイデガーが考えた問題、「芸術の本質とは何か」。これを考えるためには、真の芸術作品をよく見ることが必要となる。けれども、ある作品が本当に真の芸術作品であるかどうかを決めるためには、「芸術の本質は何か」をわかっていなければいけない、という具合。「芸術の本質」という問題をめぐって、堂々巡りをするだけ。

こうした循環論法は、一般に不毛な議論とされるが、ハイデガーは、反対に、「強み」だと言う。
私たちが原理的で本質的な事柄を考えるとき、思考は必ずぐるぐる回って最初の出発点に戻ってしまう構造をしていると言う。
だいじなのは、この円環を抜け出ることではない。この無駄と思える思考の運動のなかにあえて跳び込んでいき、「この道にとどまりつづけること」である。それこそ、「思考の祝祭」だと言う。

古代ギリシャのデュオニソスの祭りを哲学のテーマにしたのはニーチェだったが、「思考の祝祭」とは、デュオニソスの祭りのように、狂ったように踊り続けるうちに、次第に陶酔が起こり、その陶酔のなかで新たな知恵が開けるような状態をいう。
「存在とは何か」この本質的な事柄に関わる以上、私たちも思考の円環のなかに跳び込む覚悟が必要になる。』

昔、石上純也さんの話し方から、話し始めと終わりが繋がっているような印象を受け興味深いと書いたことを思い出した。
日常の議論においてもぐるぐる堂々巡りをするけど気付くとテンション上がってずっと別の次元に到達するような感覚を何気なく感じることがあるが、そんな曖昧でよくわからない状態に「思考の祝祭」なんて粋なネーミング、笑。

話がいきなり変わるが(笑)、よく「空間がある」という言い方をする人がいるが、空間がある(存在する)かどうかという僕らを悩ませる言い方について。
いわゆるぼくらが興奮するような建築的な空間が無くても情報空間がある(電波が届く、Suicaの範囲、LANが飛んでるetc)ということ(例えば商業、駅)もあって、悲しくも世間的にはそっちの方にリアリティに感じる人のほうが多いんじゃないかと思う。逆に建築的な空間があるけれど情報空間がないということもある。東京に新しい建築を作るならその重ね合わせを利用できたら面白いと考えている。
僕は、その時代のメディアの構造に次世代の社会の構造は多少なり“似る”と思うので、空間がある(存在する)ということについていろんな重ね合わせを作ることで境界を越えたり、今までに無い開放性を作り出したいとか考えている。

今週末からオーストラリアのクイーンズランドにリサーチで行くのだが、クイーンズランダーという特有の建築の形式がある。間口いっぱいに大きなベランダが付いていてとてつもない開放性がある。これは住宅に限らず、ホテルや商業、オフィスにも見られ、熱帯気候特有のローカルな建築言語が建築のタイポロジーを超えて、繁茂する例としては興味深く、ベランダという社会との特殊なインターフェースについて、境界や開放性について観察していきたい。